礼拝メッセージ(要約)

2026/10/25 主日礼拝 「裁き主なる神」 

聖書箇所:申命記 32章4節 /  詩篇 89篇14節

主は岩。主のみわざは完全。まことに主の道はみな正しい。主は真実な神で偽りがなく、正しい方、直ぐな方である。(申命記 32章4節)

義と公正はあなたの王座の基。恵みとまことが御前を進みます。(詩篇 89篇14節)

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

1.聖書が語る神を正しく知る

私たちは、神様を自分にとって都合のよいイメージで捉えるのではなく、聖書が語る通りのお方として知る必要があります。神様は愛に満ち、恵み深く、罪を赦してくださるお方です。しかし同時に、義なる神であり、善悪を正しく判断し、裁きを行われるお方でもあります。愛や赦しという一面だけを取り出して、自分の願いを何でも受け入れてくれる神を思い描くなら、それは聖書が示す神様とは違うものになります。私たちは、自分が好む神様を作るのではなく、御言葉を通して示される神様ご自身を、そのまま受け止めていく必要があります。

2.本物の愛には正しさと裁きが伴う

「愛の神がなぜ裁くのか」と疑問に感じることがあります。しかし、本物の愛とは、何をしても許し、間違いをそのまま放置することではありません。
学校でも、悪いことをした子どもをきちんと叱り、必要な時には、適切な罰も与える教師が、子どもたちから信頼されるものです。ただ優しいだけで善悪を曖昧にする人よりも、褒める時には褒め、叱る時には叱る人の中に、本物の愛や信頼を感じるのです。
同じように、神様が本当に愛なるお方であるからこそ、悪を見過ごさず、正しく判断し、正しく裁かれるのです。

3.義と公正は神様の存在そのもの

詩篇89篇14節には、「義と公正はあなたの御座の基い」とあります。これは、義と公正が神様の支配の土台であり、神様を神様たらしめている本質そのものであることを示しています。神様は正しさそのものであり、ご自身の義と公正に基づいて、すべてのことを正しく判断し、裁かれます。不正を正しいと言ったり、正義を曲げたりすることはありません。しかし同じ箇所には、「恵みと真実が御前を進みます」ともあります。神様が裁かれる時にも、そこには必ず変わらない愛と恵み、真実さが伴います。神様の義と愛は対立するものではなく、切り離すことのできない一つのものなのです。

4.主のなさることはすべて正しく完全である

申命記32章4節には、主は岩であり、その御業は完全で、すべての道が正しいと語られています。神様は判断の結果だけでなく、それを実行される過程においても完全に正しく、公正なお方です。目的が正しければ手段は問わないということはなく、目的にも手段にも、不義や悪は一切ありません。神様には偽りも曲がったところもなく、全面的に信頼することができます。私たち人間の判断には偏りや誤りがありますが、神様の裁きにはそれがありません。だからこそ、この裁き主である神様は、本当に信頼して従うことのできるお方なのです。

5.愛と義は神様の中で一つである

神様の「義・公正・善」、そして「愛・恵み・真実さ」は、別々に存在しているものではありません。それらは完全に一つとなって、神様のご性質を形づくっています。愛のない正しさは本物の正しさではなく、正しさのない愛も本物の愛ではありません。この世にある愛や正義は不完全ですが、神様のうちには、それらすべてが完全な形で存在しています。このように、他の何ものとも比べることのできない神様のあり方を、聖書はヘブル語、ギリシャ語の「別格」という言葉を用いて表現しました。日本語では「聖なる」と訳されています。神様は本物の義なるお方であり、本物の愛なるお方であり、本物の恵みに満ちたお方であり、完全に正しく裁かれるお方です。そのすべてを合わせもつ、この世には存在しない「別格のお方」、「聖なるお方」なのです。

6.十字架に現された神の義と愛

そして、この別格の神様の義と愛が明確に現された場所、それが、イエス・キリストの十字架でした。神様は罪を「なかったこと」にして赦されたのではありません。罪に対する正しい裁きを行い、その罰をイエス様が私たちの身代わりとして十字架で受けてくださいました。そこには、罪を決して軽く扱わない神様の義と公正が完全に現されています(ローマ3:24,25)。同時に、ご自分の独り子を与えてまで私たちを救おうとされた、計り知れない愛と恵みも示されています(1ヨハネ4:9,10)。
十字架は、神様の義と神様の愛、そして正しい裁き一つとなった場所です。
この私たちのために命を投げ出された主を信じることによって、どの人も、無償で、罪が赦され、新しい命へと招かれているのです。

7.裁き主なる神を見つめて歩む

私たちは、神様を「愛してくださる方」としてだけでなく、「正しく裁かれる方」としても見つめる必要があります。愛だけを強調すれば、「何をしても神様は許してくださる」という、自分に都合のよい神を作ることになってしまいます。一方で裁きだけを見れば、神様はただ罰を与える恐ろしい存在に見えてしまいます。
大切なのは、神様が義なる裁き主であると同時に、どこまでも慈しみ深い愛の神であることを知ることです。そのお方を見つめる時、私たちは罪に流されるのではなく、神様の御心に従って正しく生きたいと願うようになります。そして主は、私たちを愛と義に満ちた、キリストに似た者へと変えてくださいます。

 

(説教者:波多 康  師)