礼拝メッセージ(要約)

2026/10/18 主日礼拝 「義なる神 ー罪人を義とする父」 

聖書箇所:ローマ人への手紙5:18-19

こういうわけで、ちょうど一人の違反によってすべての人が不義に定められたのと同様に、一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます。

すなわち、ちょうど一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、一人の従順によって多くの人が義人とされるのです。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

正義と愛をともに全うされる父なる神

ある裁判官が、罪を犯した自分の娘に対して正しい判決を下しながら、その罰金を父として自ら支払ったという寓話があります。裁判官として正義を曲げず、同時に父として娘を見捨てなかった姿は、神様の義と愛を考える一つの手がかりとなります。聖書が語る神様は、罪や不正を曖昧にされない完全に義なるお方です。しかし同時に、罪人である私たちを深く愛し、救いの道を開いてくださいました。自分では罪の代償を償うことのできない私たちのために、イエス様がその罪とさばきをすべて引き受けてくださったのです。

 

神様の存在そのものが「義」である

聖書は、父なる神様を「義なる父」と呼び、義と公正が神様の王座の基であると語っています。神様は単に正しい判断をされるだけではなく、その存在そのものが正しく、正義を愛し、それを実際に行われるお方です。旧約聖書では「義・正しさ」を表す「ツェデク」と、「公正・さばき」を表す「ミシュパット」という言葉がたびたび一緒に用いられます。新約聖書でもその思想は受け継がれ、神様の判断も行いもすべて正しいことが示されています。そして、その神様の義が最も具体的に現されたのが、御子イエス・キリストによる救いです。

 

アダムの不従順によって入った罪と死

ローマ人への手紙5章18~19節では、アダムとイエス様が対照的に描かれています。アダムの一つの違反と不従順によって罪が世界に入り、死がすべての人に広がりました。アダムの罪の本質は、単に禁じられた木の実を食べたことではありません。神様の言葉より自分の判断を優先し、自らが善悪を決める側に立とうとした「神様への不従順」にありました。義なる神様は罪を何もなかったことにはされず、正しくさばかれます。その結果、人類は罪と死の支配のもとに置かれ、私たち自身もまた罪を犯す者として生きるようになったのです。

 

イエス様の従順によって与えられた義といのち

アダムの不従順に対して、イエス様は生涯を通して父なる神様の御心に完全に従われました。その従順の頂点が十字架です。十字架を前に深い苦しみを経験しながらも、ご自分の願いではなく父なる神様の御心が行われることを願い、救いの計画に従われました。そして罪のないイエス様が、罪人である私たちに代わってさばきを受けてくださったのです。この「一人の義の行為」によって、アダムの罪によって失われた私たちに、神様から義と認められ、永遠のいのちを受ける道が開かれました。

 

十字架に現された神様の義と愛

神様は義なるお方ですから、罪を見過ごすことはできません。しかし同時に、罪人である私たちを愛し、救うことを願われました。その二つが完全に成し遂げられた場所が十字架です。イエス様が私たちに代わって罪のさばきを受けられたことで、罪は正しくさばかれ、それと同時に私たちには救いの道が開かれました。神様はご自分の義を曲げることなく、その愛を完全に示されたのです。イエス様が自分の罪のために死んでくださったことを受け入れ、救い主として信じる者は、だれでも神様から義と認められ、永遠のいのちをいただくことができます。

 

義とされた者として、義のために生きる

十字架によって示された神様の義と愛は、単なる過去の出来事ではありません。キリストが私たちの罪を負ってくださったのは、私たちが罪から離れ、「義のために生きる」ためでもあります。

(Iペテロ2:24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。)

私たちは自分の正しさによって義とされたのではなく、イエス様によって義とされた者として、今度は神様の正しさを求めながら生きるよう招かれています。不義や罪に取り囲まれた現実の中にあっても、義なる神様を見上げ、その御心に従って歩むことが、救われた私たちに与えられた新しい生き方なのです。

 

義の宿る新しい天と新しい地を待ち望む

聖書はさらに、私たちには未来への確かな希望があると語っています。それは「義の宿る新しい天と新しい地」です。

(IIペテロ3:13 しかし私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。)

今の世界には罪や不正、悲しみが存在していますが、それが永遠に続くわけではありません。神様はやがて、ご自身の義が完全に満ちる世界へ私たちを導いてくださいます。

新しい一週間も、目の前の不義や罪だけに心を奪われるのではなく、義なる父なる神様を見上げたいと思います。そして、イエス様によって義とされた者として、神様が備えてくださった義の道を、主とともに歩んでいきましょう。

 

(説教者:安海 和宣  師)