2026/9/13 主日礼拝 「わたしはわたしの教会を建てます」
聖書箇所:マタイの福音書16章13~19節
さて、ピリポ・カイサリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。
彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。」
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」
すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。
そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。
わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
1.教会は誰が建て、誰のものなのか
教会について考えるとき、まず問われるのは、「教会は誰が建て、誰のものなのか」ということです。牧師や教会員、あるいは教会の意思決定を担う人々のものと思われることがあるかもしれません。しかし、聖書が示す答えは明確です。
教会は、イエス・キリストご自身が建てられる、イエス様の教会です。私たちは教会を愛し、「私たちの教会」と呼びますが、教会は私たちの所有物ではありません。私たちは、イエス様の教会に招かれ、その一員として歩ませていただいているのです。
したがって、教会について考えるときに最も大切なのは、「私たちはどうしたいのか」ではなく、「教会の主であるイエス様は、何を願っておられるのか」という視点です。
2.混沌の地で語られた教会建設の宣言
イエス様が「わたしはわたしの教会を建てます」と宣言されたのは、ピリポ・カイサリアでした。そこは異教の神々が祀られ、人間の欲望や混乱、無秩序があらわになっていた場所です。
そのような場所でイエス様は弟子たちに、「人々はわたしをだれだと言っていますか」と尋ね、さらに「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と、個人的な信仰を問われました。
これに対してペテロは、次のように告白しました。
「あなたは生ける神の子キリストです。」
この告白は、ペテロ自身の知恵や洞察によるものではなく、父なる神によって示されたものでした。そしてイエス様は、この信仰告白という岩の上に、ご自分の教会を建てると宣言されたのです。
3.神によって呼び集められた共同体
聖書で「教会」と訳されている「エクレシア」には、「集会」「集まり」「共同体」という意味があります。教会とは、神様によって呼ばれ、召し集められた人々の共同体です。そして、そのかしらはイエス・キリストです。
私たちは自分の意思や判断によって教会に来たように思います。しかし、その背後には、私たちに先立つ神様の招きがあります。偶然この教会に集った人は一人もいません。一人ひとりがイエス様に名前を呼ばれ、招かれ、イエス様を中心とする共同体に加えられているのです。
4.教会の中心は信仰告白と礼拝
教会に呼び集められた私たちがなすことは、ペテロと同じように、「あなたは生ける神の子キリストです」と告白することです。この告白は信仰の表明であると同時に、礼拝そのものです。
礼拝のすべての要素は、生ける神の子キリストに結びついています。私たちはキリストに招かれて集い、祈り、賛美し、献げ、御言葉を受け取ります。そして、今も生きておられる主を告白し、その祝福を受けて遣わされます。
教会の中心にあるのは、人間の活動や計画ではなく、イエス・キリストを主と告白する礼拝です。
5.教会に与えられた使命
イエス様はペテロに「天の御国の鍵」を与えると語られました。この鍵とは、人々を神の国へと招く福音です。
ペテロが異邦人コルネリウスに福音を語ったことを突破口として、救いの知らせは民族や人種の壁を越えて広がっていきました。そして教会は、「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」という使命を与えられました。
教会は、自分たちだけで恵みを受けて終わる共同体ではありません。神様の救いの知らせを携え、閉ざされている扉を開き、この世の人々に福音を伝えるために遣わされる共同体です。
6.よみの門も教会に打ち勝てない
現代の社会にも、闇や混乱、無秩序、分断があります。日本ではクリスチャンが少なく、教会が社会に働きかけることなどできないのではないか、かえって社会の大きな波に飲み込まれてしまうのではないかと感じることもあります。
しかし、イエス様は約束されました。
「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。」
「よみの門」は死の力を象徴しています。しかし、死の力さえもキリストの教会を最終的に打ち負かすことはできません。教会を建て、守り、導かれるのは、全能なる主イエス様ご自身だからです。
7.主が建てられる教会として
教会を建てるのは私たちではありません。教会を守る最終的な責任を、私たちだけが背負っているのでもありません。教会はイエス様のものであり、イエス様ご自身が建ててくださいます。
だからこそ私たちは、主がこれまで教会に何をしてくださったのかを覚え、これからどこへ導いてくださるのかに期待します。そして、主を礼拝し、主に信頼し、主によって養われ、主から遣わされて、福音を伝えていくのです。
(説教者:安海 和宣師)