礼拝メッセージ(要約)

2026/8/30 主日礼拝 「弟子の召命」 

マタイの福音書 4:12~25

イエスはヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退かれた。
そしてナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある、湖のほとりの町カペナウムに来て住まわれた。
これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。
「ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦人のガリラヤ。 闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。」
この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。
イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。
イエスはそこから進んで行き、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイと一緒に舟の中で網を繕っているのを見ると、二人をお呼びになった。
彼らはすぐに舟と父親を残してイエスに従った。
イエスはガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされた。
イエスの評判はシリア全域に広まった。それで人々は様々な病や痛みに苦しむ人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人など病人たちをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らを癒やされた。
こうして大勢の群衆が、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、およびヨルダンの川向こうから来て、イエスに従った。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

1.暗闇の中で輝くキリストの光

世界各地で自然災害や争いが続き、多くの人々が痛みや不安の中にいます。聖書は、神が造られた世界が罪によって本来の美しさを失い、人間だけでなく自然も救いと回復を待ち望んでいると語ります。

だからこそ教会には、苦しみの中にいる人々のために祈り、支援し、暗闇の中でいっそう輝くイエス・キリストの恵みを伝える使命があります。

2.アジアに広がる福音の働き

RISE ASIA」では、アジア各国から約4,300人の若者が集まり、「福音の届いていないところへ出て行こう」と励まされました。また、日本同盟キリスト教団の全国宣教大会やPBA(太平洋放送協会)の大会でも、多くの人々が集まり、賛美やメッセージを通して福音を分かち合いました。

これらの働きは、福音が国や文化を越えて広がっていることを示しています。それを支える教会の祈りも、決して無駄になることはありません。

3.旧約から新約へ――宣教の主役がイエスへ移る

マタイの福音書では、1章の系図から始まり、2章では東方の博士たちを通して福音が異邦人にも開かれていることが示されます。3章ではイエスが洗礼を受け、父・子・聖霊が現れる中で、メシアとしての働きが始まります。

4章前半では、イエスが荒野でサタンの誘惑を受け、それに勝利されました。そして、洗礼者ヨハネが捕らえられたことを契機に、イエスご自身の宣教が本格的に始まります。旧約最後の預言者であるヨハネから、約束されたメシアであるイエスへと、救いの歴史の舞台が移されたのです。

4.異邦人のガリラヤに昇った光

イエスはナザレを離れ、ガリラヤ湖畔のカファルナウムに住まわれました。そこはユダヤ人と異邦人が共に暮らす地域であり、エルサレムから見れば周辺の地でした。

しかし、これはイザヤが預言したとおりでした。

「闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。
死の影の地に住んでいた者たちの上に、光が昇る。」

死を恐れ、希望を失っている人々のところへ、イエスは命の光を携えて来られました。イエスの十字架と復活によって、死は終わりではなく、天の御国へ至る通過点となったのです。

5.悔い改めとは、神に心を向け直すこと

イエスの宣教の第一声は、次の言葉でした。

「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

ここでいう悔い改めは、単に自分の失敗を後悔することではありません。旧約聖書の「シュブ」は「神に立ち返ること」、新約聖書の「メタノイア」は「考え方や方向を転換すること」を意味します。

天の御国が近づいたからこそ、自分中心の生き方から方向転換し、神とメシアであるイエスに心を向け直す。それが聖書の語る悔い改めです。

6.イエスは特別な人ではなく、普通の人を招かれた

イエスが最初に弟子として招いたのは、ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネという四人の漁師でした。彼らは祭司や律法の専門家ではなく、仕事の最中にあった普通の人々です。

また、聖書に登場する弟子たちは、決して欠点のない人たちではありませんでした。イエスは、弱さや難しさを抱えた人をそのまま招かれます。大切なのは、最初から何でもできる「Able」な人であることではなく、主の招きに応えられる「Available」な人であることです。

7.「何をするか」より先に、「わたしについて来なさい」

イエスは弟子たちに、最初から「世界へ出て福音を伝えなさい」と命じたのではありません。まず、こう言われました。

「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」

順序が大切です。まずイエスについて行くこと。その後で、イエスご自身がその人を整え、用い、その人にふさわしい働きへと導いてくださいます。

自分の能力や可能性を先に心配する必要はありません。「主がおっしゃるなら、私は従います」と応答して、一歩ずつついて行けばよいのです。

8.私たちを最もよく知る方に従う

イエスは、私たちの強さも弱さも、願いや夢も、現在置かれている状況も、すべてご存じです。説教者自身も、イエスに従う中で、かつて抱いていた「歌いたい」「海外へ行きたい」「教師になりたい」「通訳をしたい」という願いが、思いがけない形で用いられてきたと証ししました。

イエスに従うことは、自分らしさを失うことではありません。むしろ、自分を最もよく知る主によって、本来の賜物や願いが生かされ、その人が最も輝く場所へと導かれていくことです。

9.御国の福音は現実である

イエスは弟子たちを連れてガリラヤ全域を巡り、御国の福音を宣べ伝え、病や苦しみの中にいる人々を癒やされました。

これらの癒やしは、単に人々を驚かせるための奇跡ではありません。病も苦しみも涙もない天の御国が、イエスによってこの地上に近づいたことを示す「御国の現実」でした。

弟子たちはイエスのそばに置かれ、その働きを見て、共に体験しながら訓練されていったのです。

10.今日、弟子としてイエスについて行く

私たちも、最初の弟子たちと同じようにイエスから招かれています。足りないところや欠けがあっても、主のそばに置いていただき、その御業を共に体験することができます。

必要なのは、自分の力で立派な働きを成し遂げることではありません。暗い夜道で先を行く車のテールランプを頼りについて行くように、イエスを信頼し、その後を歩むことです。

イエスの招きに応えてついて行くなら、主ご自身が私たちを造り変え、それぞれの賜物が最も生かされる働きへと導いてくださいます。今日も明日も、主に期待し、主を待ち望み、弟子としてイエスについて行きましょう。

 

(説教者:高見澤 栄子師)