礼拝メッセージ(要約)

2026/8/9 主日礼拝 「 聖なる神2 」 

ペテロの手紙第一1:15-16

あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。 「あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである」と書いてあるからです。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

導入: 「聖」という言葉を正しく理解する必要

ペテロ1:15「聖なる者となりなさい」という言葉を正しく理解するには、「聖」という言葉の聖書本来の意味を知る必要があります。

1.日本語の「聖」の意味

日本語の「聖」は、元々、「神仏に仕える人」「修行を積んだ人」「人格者」「徳の高い人」という意味合いが強い言葉で、人間の延長線上にある「優れた人」を表す言葉です。
ですから、日本語で「聖なる人」「聖徒」と聞くと、「人格的に優れた善い人」をイメージしやすいのす。

しかし、「聖」と訳されたヘブル語の原語「カドーシュ」の意味はかなり違います。

 

2.「聖」と訳される「カドーシュ」の元々の意味

「カドーシュ」の意味は、「他のものから区別された」「特別に取り分けられた」「まったく比べるもののない別格のもの」です。
ですから、イザヤ書6章で、セラフィムが神に対して「カドーシュ、カドーシュ、カドーシュ」と叫んだ時、イザヤは「別格のお方、別格のお方、別格のお方」と聞いたのです。

 

3.「カドーシュ」の意味は「道徳的聖さにおいても別格」

この「カドーシュ」は、元々古代オリエント世界でも使われる一般的な言葉で、「人間を超えたもの」、おもに「神々の世界に属するもの」という意味で使われていました。ただし、道徳的な善や正しさという意味は含みませんでした。

ところが、聖書で神のことを「カドーシュ」と呼ぶことで、この言葉の意味が本質的に変わります。たとえばレビ記では、「わたしは聖(カドーシュ)である。だから嘘をつくな。盗むな。隣人を愛せ。」とあります。

神は、三位一体の神、創造主、永遠のお方、完全な愛・義・善・真理・真実・平安・喜びを持つお方です。人間の延長線上にいるのではなく、また人間が少し努力して近づける存在でもなく、被造物とは本質的に異なる「別格」「別次元」の唯一無二の存在です。このお方を「カドーシュ」と呼ぶことで、「カドーシュ」は、道徳的な完全さをも含む「別格」という意味になりました。

 

4.人の罪を浮き彫りにする別格(カドーシュ)の神(イザヤ6:5

神は罪や悪を一切持たず、罪を見過ごしたり、なかったことにしたりできないお方です。

この神の前に立ったイザヤは、自分の罪深さを知り、「私は滅んでしまう」と叫びました。

暗い所では見えない服の染みが、太陽の光の下ではっきり見えるように、私たちが神を知る時、自分の本当の姿や罪深さを知るのです。神とはそういう別格の、完全な道徳的善を持つお方です。

 

5.人の罪を赦す別格(カドーシュ)の神(イザヤ6:6

さてに、罪を自覚したイザヤに、セラフィムは祭壇から取った燃える炭を触れさせ、「あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された」と宣言します。
「祭壇の炭」とは「いけにえを燃やす炭」のことで、イエスが十字架上で究極のいけにえとして捧げられ、救いが達成されることを示し、また「イザヤの唇が祭壇の炭で罪赦されたこと」は、イエス・キリストの十字架によって罪赦されることを示しています。
神はご自身の完全な正しさを曲げることなく、同時に完全な愛によって、罪人である私たちを救う道を開かれました。
この「カドーシュ」なる神は「愛と赦しの神」であり、同時に「愛と赦しの神」なので「カドーシュ」なる神と言えるのです。                                                        

 

6.「聖徒」とは、神に属する者

さらに、「カドーシュ」は、神に使われると同時に、神に属するもの、器や油、また人にも使われます。「カドーシュ」は、新約聖書のギリシャ語では「ハギオス」と訳され、やはり「区別されたもの」という意味です。
日本語の新約聖書で「聖徒」と訳されるギリシャ語は「ハギオス」です。
それは、「善い人」「罪を犯さない人」ではなく、「他と区別され、別格の神に属する者」という意味です。
「善い人」はその人の性質や行いを表します。

一方「聖徒」は、その人が誰に属しているかを表します。
では、「善い人」と「聖徒」の関係は、というと、善い行いを積み「善い人」となった結果、「聖徒」と認められるのではありません。その逆です。
まず神が、罪人である私たちをイエスの十字架によって救い、神のものとしてくださいます。その人は、神と共に歩む中で少しずつ神の御姿へ変えられ、善い行いをする者とされるのです。

 

結び:「聖なる者となる」とは神と共に歩むこと

さて、第一ペテロ1:15-16の「聖なる者となれ」とはどういう意味でしょう。
人間の努力によって頑張って「善い人になれ」「立派になれ」という意味ではありません。

「別格の神のものとされた事実を自覚し、生活のすべてにおいて神を見つめ、神と共に歩み続けなさい」という主の招きです。そして、日々、「私は神のもの。今神は何を喜ばれるだろう。」と意識して歩むこと、それが聖なる者として生きることです。

そう歩む時、聖霊が私たちの内に働き、月が太陽の光を反射するように、私たちは、少しずつ神のご性質を映し出す者へ、本物の愛、喜び、平安、正しさを持つ神の御姿へ、生涯を通して変えられていくのです。

 

 

(説教者:波多 康牧師)