2026/8/2 主日礼拝 「 聖なる神 」
ペテロの手紙第一1:13-16
ですから、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。 従順な子どもとなり、以前、無知であったときの欲望に従わず、 むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。 「あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである」と書いてあるからです。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
【導入】 三位一体なる神の「聖さ」
これまで、父なる神が愛の神であり、赦す神であることを学んできました。
今回は、父なる神の「聖さ」に目を向けます。
神は三位一体のお方であるため、聖さは父なる神だけの性質ではなく、御子イエス・キリストと聖霊にも完全に表されています。
イエスの生涯には神の聖さが満ちており、聖霊もその名のとおり「聖い霊」です。
旧約聖書では、人間の罪や汚れと対比しながら、神がどれほど聖いお方であるかが繰り返し語られています。
神の聖さは、私たちから遠く離れた抽象的なものではなく、私たちの生き方に深く関わるものです。
今回は、次の三つの視点から神の聖さを考えます。
I. 神は聖いお方
II. 聖なる神がおられる所は聖い
III. 聖なる神の期待 ~人が聖くなること
I. 神は聖いお方
◆「聖なる、聖なる、聖なる」神
イザヤ書6章では、預言者イザヤが天の御座におられる主を目撃します。
セラフィムたちは、主に向かってこう呼び交わしていました。
「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満ちる。」
「万軍の主」とは、全宇宙を治め、すべてを支配しておられる神を表します。
その神に対して、「聖なる」という言葉が三度繰り返されています。
聖書には、神の性質を三度繰り返して表現する箇所はほかにありません。
「愛なる、愛なる、愛なる」でも、「義なる、義なる、義なる」でもなく、「聖なる、聖なる、聖なる」と賛美されています。
これは、神の聖さが神の本質においてどれほど重要であり、賛美されるべきものであるかを示しています。
◆神の聖さは光を放ち、御業となって現れる
神の聖さは、神ご自身が聖いというだけで終わりません。その聖さは栄光となって輝き、全地へと広がっていきます。
出エジプト記15章では、神は「聖であって輝き、恐るべき御業を行う方」と賛美されています。
また詩篇99篇では、すべての国々を治める王として、「主は聖なる方」と語られています。
神の聖さは、輝き、威厳、力、義、愛として現れ、神の御業や行動へとつながっていきます。
神の聖さとは、静止した性質ではなく、周囲に影響を与え、変化をもたらすものです。
◆「聖い」とは、特別に区別されていること
旧約聖書で「聖い」と訳されるヘブル語は、「カドーシュ」です。
この言葉には、「ほかのものから区別され、特別に取り分けられている」という意味があります。
神は、すべての被造物とは全く異なる、絶対的な聖さを持つお方です。
日曜日を「聖日」と呼ぶのも、ほかの日から区別し、神を礼拝するために特別に取り分けるからです。
聖餐式も、単なる食事会ではありません。
パンとぶどう液を通して、イエスの十字架を心と五感で覚える、特別に取り分けられた聖なる食事です。
同じように、クリスチャンの生き方も、自分を中心とした自己実現のための生き方から区別されます。
神を中心に置き、神の御心が実現することを願って歩む生き方へと変えられていくのです。
II. 聖なる神がおられる所は聖い
聖書は、聖なる神がおられる場所も聖いものになると教えています。
◆燃える柴とモーセ
モーセが燃えているのに燃え尽きない柴に近づいたとき、神は言われました。
「ここに近づいてはならない。履物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」
その土地自体に特別な力があったのではありません。聖なる神がそこに臨んでおられたため、その場所が聖なる地となったのです。
◆シナイ山
神が十戒を与えるためにシナイ山へ降りて来られたとき、山の周囲には境界が設けられました。また、神に近づく祭司たちは、自分自身を聖別するよう求められました。
神が臨まれる場所は、ほかの場所から区別され、聖なるものとして扱われなければならなかったのです。
◆神殿の至聖所
神殿の最も奥には、「至聖所」と呼ばれる場所がありました。
英語では「The Holy of Holies」、すなわち「聖なる場所の中でも最も聖なる場所」です。
そこには、神の臨在を象徴する契約の箱が置かれていました。
聖なる神の存在を表す場所であるため、特別に区別された聖なる場所とされました。
III. 聖なる神の期待 ~人が聖くなること
◆神の御心は私たちが聖くなること
第一テサロニケ4章3節には、非常に明快に書かれています。
「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。」
神が私たちに最も願っておられることは、社会的に成功することや、自分らしく活躍することではありません。
私たちが聖なるものとなり、神の聖さにあずかることです。
レビ記でも、神はこう語られました。
「あなたがたは聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。」
この言葉は、第一ペテロ1章でも引用されています。
私たちは、聖なる神に倣い、生活のすべてにおいて聖なるものとなるよう招かれています。
◆私たちはどのように聖められるのか
私たちが聖なるものとされるためには、三つの段階があります。
- 第1段階 自分の罪と汚れを認める
まず、自分は完全に聖い者ではないと認めることです。自分の過ちや罪、神から離れた生き方を正直に認めます。 - 第2段階 神が聖いお方であると認める
次に、神こそ聖なる方であり、自分を聖めることのできる方であると信じます。そして、神の聖さを求めます。 - 第3段階 聖めを求めて祈る
「神様、罪深く汚れの多い私を聖めてください」と、神に告白し、祈ります。
第一ヨハネ1章7-9節には、この3つの段階が記され、ここを通ることで神様の聖めるプロジェクトが動き出すことを示しています。
私たちを聖めるのは、自分自身の努力ではありません。
イエス・キリストが十字架で流された血によって、私たちの罪は洗い聖められるのです。
◆何度失敗しても、神は聖め続けてくださる
現実には、私たちは何度も同じ過ちや罪を繰り返します。そのたびに、自分は全く成長していないと落ち込むことがあります。
しかし神の見方は違います。
何重にも重なった罪や弱さが、神によって一枚ずつ取り除かれ、少しずつイエスの聖さに近づけられていきます。
失敗するたびに、「神様、また罪を犯しました。赦してください。あなたのもとに戻ります。私を聖めてください」と祈ることができます。
神は何度でも赦し、聖めてくださいます。聖めは一度で完成するものではなく、生涯を通して続いていく神の働きです。
◆聖霊が住まわれる私たちは、聖なる場所である
新約聖書は、聖霊が神を信じる者の内に住んでおられると教えています。
燃える柴、シナイ山、至聖所が、神の臨在によって聖なる場所となったように、聖霊が住まわれる私たちも、聖なる神の臨在する場所です。
私たちが聖くなるのは、自分の努力や頑張りだけによるのではありません。
聖なる神が私たちの内に住み、内側から聖めてくださるからです。
自分の汚れや罪深さを思い、「こんな自分の内に聖霊が住まわれるのは恐れ多い」と感じるときは、祈る機会です。
「私の内に住んでおられる聖霊様、私を赦し、聖めてください」と願うことができます。
クリスチャンが「聖徒」と呼ばれるのは、その人自身が完全に聖いからではありません。
その人の内に、聖なる神が住んでおられるからです。
◆教会もまた聖なる場所である
神が臨在しておられるもう一つの場所は、教会です。
イエス・キリストは教会のかしらであり、教会はキリストの体です。
教会には、聖めが完成した人々ではなく、今も聖められている途中の人々が集まっています。
それでも、キリストが臨在しておられるため、教会は本来、聖なる場所です。
礼拝、教会運営、交わり、学び、宣教、伝道の中に、神の聖さが反映されているかを振り返る必要があります。
【むすび】神の聖さを受けて歩む
神の聖さは、神ご自身の内側だけにとどまりません。
その聖さは光を放ち、周囲へ広がり、その場所を聖め、神の御業と栄光を現していきます。
私たちは、神の聖さと自分の人生を重ね合わせ、また神の聖さと教会の歩みを重ね合わせながら祈るよう招かれています。
聖なる神に倣い、聖なる神に自由に働いていただき、聖なる神に満たされて、新しい一週間、新しい月を歩んでいきたいと願います。
【祈り】
圧倒的に聖い神の前で、私たちは自分の弱さ、汚れ、罪を思わされます。
過去の失敗や罪悪感に苦しむこともあります。
しかし聖書は、イエス・キリストが十字架で流された血によって、私たちはすでに聖められていると語っています。
この約束を信じ、神の聖さにあずかる者として歩めるように、神の導きを求めます。
(説教者:安海 和宣牧師)